Twitterでのことですが
最近よく考えてたのは
昔お世話になった方がKuaroって名乗ってた。
その人とある意味最後の別れになった日にKuaroって名前と綴りを教えてもらった。
今となってはそれが重ったるくてまるで他人の墓石を担いでる気分だ。
俺は到底Kuaroを名乗れないから後ろにClownを付けた。
ただそれだけ
これが誇りなんかな?まだ分からんがその内分かる時が来るか。
考え出したら止まらないモノで
俺なんかが貰って良かった代物なのだろうか?
俺はKuaroClown
俺はまだおどけるだけの道化でしか居ません
俺はまだただのKuaroを掲げる自信はありません。
ただ、一つ約束できるのはKuaroと言う名を冥土まで持って逝く事です。


煙草のマナーは喫煙者と嫌煙者の間に
昨今ではJT(日本たばこ産業)などの働きかけにより喫煙にもマナーと言うものが一際強いものになってきた。
私自身は喫煙家であり暇さえあれば吸っている。
だが私自身はそのマナーは良いものだと思っている。
煙が苦手な人も世の中に居るのだ。
それに分煙は当たり前のマナーに決まっている。
確かに世の喫煙者の方々は肩身の狭い思いを身に染みて感じているに違いない。
だが私達喫煙者はきちんとたばこ税なる物を納めているのだから堂々と吸っても文句は無いだろうと思っているに違いない。
正直昔は私もそう思っていたが嗜みと言うものであるからにして少々の肩身の狭さはあってもさしあたって問題は無いだろう。
それに私達喫煙者は一向に構わないが子供たちの前で堂々と吸いたくは無いモノだ。
なぜならば、お国にたばこ税を納めているとは言っても偉いと云う訳でもない。
そしてその子供の綺麗な肺の中にも煙は意図も容易く侵入してしまう。
そう言った観点から言うならば、多少のマナーぐらいは守って当たり前な世界なのだ。
そうやってマナーさえ守っていれば喫煙者のイメージはより一層今までより良いイメージに変わり嫌煙者の方にも嫌われずに済むだろう。
弁えとか立場と言うものは必ずしも必要になってくる。
となればどちらが正常位かと言われれば普通の人になる。
煙草を吸っている人はそれに伴うリスクと言うものをたばこ税と言うものを逃げ道にしている様な物だ。
だから私的にはそこら辺の壁の隔てこそ必要だと思う。
それは薄いガラス一枚で守られると言うものだ。
均衡を保つと言う事ではそのガラス一枚壁一枚そう言った物が保ってくれるのだ。
そう考えるのならばそれぐらいの我慢とは大人ならばできることだろう。
大体街のアーケード内でタバコを悠々とふかしているのは未成年と相場は決まっている。
そう言った身勝手な振る舞いこそが健全な喫煙者のイメージを崩し去っていくのだ。
喫煙者の皆さんこの機会ですから嫌煙者や子供たちの事を少しぐらい自分の振る舞い方を考えていってもそれは格好の悪い事ではないし寧ろ良い事だろう。
マナーの再確認と自分のできることを考えてはいかがでしょう?
自分らしさと言うラベル
誰でも自分らしさと言うラベルは持っているだろう。
ここ二〜三日そう言った事を考えるべきタイミングとそう言った機会があった。
自分らしさ。
私で言えば
見た目と中身のギャップ。
馬鹿。
一応良識あり。
まぁ、自分で言うと変にとらわれてしまうからこの辺でやめておこう。
誰でもそう言った自分自身の特徴と言う。
自分らしさと言うものがあるはずだ。
そう言ったものは中々気づく機会が少ないだろう。
だからこそそう言った機会があれば自分自身で自分を見つめなおせばそれで良いだろう。
■
ここ一週間ぐらいだろうか。
定期的に瞬間的に激しい頭痛に苛まれていたり。
家族内のもめ事の相談役になっていたり。
それこそ雑務以下の様な物だろう。
明日が花金だろうが私は何一つ嬉しくもない。
睡眠不足かどうかは分からないが、まぁ良いのだろう。
煙草の本数が増えたせいで万年金欠のスキルが復活してしまった。
安酒を飲むと言う暴挙は流石にもうしてない。
しかし、この前までの暑さのせいで心の中で「縁側に座って脚は水を入れた盥に入れて冷酒でも呑みたい」と言う願望が沸々と湧き上がってきたがここのところは寒くなってきたので願望は無い。
生者には冷えた麦酒を奉れ。ではないが、私としては暑い日ぐらいは一缶でも一本でも呑みたいところだ。
だいたい雑務以下の雑務など酷いものだろう。
酒ぐらいは飲みたいものだが生憎薬との相性がマイナス以上の最悪の相性なので私は飲むことが制限されている。
処方されている薬の説明を読むだけでより一層鬱になる。
これこそいじめではないのだろうか。
善意が無意識の悪意になるとは主に薬の処方箋の説明書きの副作用の項目の事に違いない。
\ / このブログでは常識に囚われては
● ● いけないのですね!
" ▽ "
それは当たり前だ、ろくでもない日常なのだから。
占いの意味と捉え方のおさらい
占いは未来予測ではないのです。
占いとは未来に起きるであろう事象をどう受け止めるべきか判断するための判断材料。
つまり中る中らないというものではない。
そう、捉え方の問題です。
さて、前置きはこの辺で宜しいでしょうか?
例えば――手に持っているとあるペンを落としたとします。
これは善いことでしょうか?それとも悪いことでしょうか?
この時点では悪い事に当てはまるかもしれません。
では、それを拾う際に机の下に落ちていた探し物を発見したとしたら如何でしょうか?
ここでは善いことですよね?
しかし失せ物を見つけたこととペンの落下には因果関係はありません。
それはただの偶然…そう 偶然そうなること それこそが神秘なのです。
物事は常に起きるだけ本来善いも悪いもない――
極端な例を挙げるなら――ある国の英雄が何百何千の敵を倒し国を護ったとします。
しかしまたある国にとってその英雄は何千何百の人を殺した悪鬼でしかない――
占いとはつまり吉凶を見定めるもの――
本来物事は正でも負でもない訳ですからどう受け取ろうと構わないものでしょう?
それだけに人は迷う。
だからこそ形而下の論理を超えたところで判断を下して戴き正負のラべリングをするのです。
下して戴く。
さて、ここで問題なのですが、誰に下して戴くのでしょうか?
まぁ、一番妥当なのは神でしょうね。
ですが、神とは存在証明は何世紀も前に否定されてあらゆる合理神学の正当性は否定され始めています。
では、人の信じる神とは何なのでしょうか?
それは都合の良い場面で感謝し都合の悪い事や悲しいことが起きると神と呼ばれるものに罵倒し。
都合の良い解釈が神と言うあやふやなモノになっているのです。
と、無神論者の様に喋るのはこの多神論の国ではあまり受け入れれないでしょうね。